広島県は、全国で一位の牡蠣生産量を誇る牡蠣ングダムです。その数は、全国生産量の約七割を占めます。いまや不動の地位を確立した牡蠣ングダム・広島県ですが、その歴史は古く、室町時代にはもう養殖がはじまっていたという資料も残されています。これは、この巨大な帝国を支える人々、歴史、おいしさの秘密に迫る物語です。
広島牡蠣は、殻は小さいけれど身は大きくプリッとしていて、濃厚な味わいが特徴です。一般的な出荷時期は十〜五月ですが、近年では夏でもおいしく食べられる品種が開発され、一年をとおしてプリッと肉厚で濃厚な味わいを楽しめるようになりました。広島のかきが美味しい理由は一体どこにあるのでしょう?
広島湾は島や岬に囲まれ、波が静かで、潮の流れも適度にあり、牡蠣の成育にいい条件がそろっています。潮の流れや、水温、塩分濃度だけでなく、波が穏やかなため、養殖筏を安全に設置できることも、おいしい牡蠣をつくる養殖場の運営に一役かっています。
例えば、夏の水温上昇が産卵の刺激を与え、秋の水温低下が牡蠣の身を大きくします。水温が夏に上がらなかったり、秋に下がらなかったりすると、牡蠣養殖そのものの土台がゆらぎかねません。このように、水温変化もまた、牡蠣養殖にとって大切な条件の1つなのです。
流れ込む河川水の影響で、広島湾では梅雨時期から夏にかけ海水中に塩分濃度の差による層ができます。このため、牡蠣のエサや酸素などの上下混合がほとんどなく、水平的な拡散・移動が中心となり、「甘い水(=少し薄い海水)」を好む牡蠣にとって最高の条件となるのです。
牡蠣の大好物は、植物プランクトン。そのため、プランクトンの増殖が、牡蠣養殖の1つの鍵になります。広島湾は、この点でも大変恵まれた環境にあります。というのも、流れ込む河川水によって運び込まれた栄養が、植物プランクトンの増殖に大きく貢献しているからです。
生でも、焼いても、煮ても、蒸しても、どんな食べ方をしても変わらず私たちを満足させてくれる牡蠣ですが、それは現代に限った話ではなく、人類はずっとずっと昔から牡蠣を愛していました。それは、縄文時代や弥生時代の貝塚から牡蠣殻が出てくることからも明らかです。
実は、牡蠣の仲間が地球上に現れたのは、何と一億年前といわれています。県北部の三次・庄原地区の160万年前の地層から、大きくて厚い殻の牡蠣の化石が出土しています。広島湾でも古来、天然の牡蠣がとれていて、人々は岩や石についている牡蠣を自由にとって食べていました。
養殖が始まったのは、室町時代の天文年間(1532~55年)、約450年前。1924年に草津村役場が発行した「草津案内」にこう記されています。「天文年間(1532~55)安芸国(=広島)において養殖の法を発明せり」広島湾における牡蠣の養殖の記述としては、最も古いものだとされていますが、安芸国のどこか、どのような養殖法かは分かっていません。
養殖の初期の方法としては、干潟に小石を並べて牡蠣を付着させ、成育を待って収穫する「石蒔養殖法」や、牡蠣を干潟の砂の上に直接置いて、成育を待って収穫する「地蒔(ちまき)式養殖法」などがありました。生産性はあまり高くありませんでしたが、風波の影響を受けにくいことから簡単だったので、長く続きました。
その後、「ひび建て養殖法」といって、竹や雑木を干潟に建て、かきを付着させ、成育を待って収穫する養殖方法が生まれ、この方法は昭和の初めまで約300年間ほど行なわれました。カキの養殖方法はその後も改良・改善が加えられ今の「筏式垂下法」が主流となったのは戦後になってからです。
干潟でしか養殖できなかった漁場の沖合化を可能にし、漁場面積は拡大、広島かきの生産量は飛躍的に伸びてきました。今、わたしたちの食卓に、当たり前のように牡蠣がならぶのもの、こうした長い時間をかけて、さまざまな人が、いつでも美味しい牡蠣がだべられるように努力を重ねてきた結果なのです。